日本清酒発祥の地・奈良。
氷室跡が多く残る北東山間部の大和高原、
標高約500mの厳冬の地・都祁(つげ)に、倉本酒造はあります。
寒暖差の大きいこの地で良質な稲を育て、
自社の山で採取される山水を汲む……
1871年の創業から今日に至るまで、
倉本酒造は、地の利を活かした酒造りをしてきました。
代々大切に手入れしてきた裏山。
その地層でゆっくりと濾過された甘みのあるやわらかな山水は、
この蔵だけのもの。
この山、この水こそが、倉本酒造の礎。
素材や自然の声を聞き、手間と時間をかけ、
ゆっくりと菌を導き醸される酒は、地元を中心に愛されてきました。
その伝統を継承しながら、
この土地、この蔵だからできる日本酒の新たなスタンダードを目指して。
日本酒は、もっと自由になれる。
そう信じて、日々五感を研ぎ澄ませ、真っ直ぐに酒と向き合っています。
山
私たちの蔵のある土地は、流紋岩やデイサイト、火砕流堆積物の地層であると考えられています。流紋岩は、緻密で硬く浸食に耐える地層で、小高い山が点在するこの地域の風景を形成しています。デイサイトは、斜長石(カルシウム・ナトリウムを主成分)を含むため、Caの溶出が多いのが特徴で、水全硬度50mg/L(軟水)の成分割合としてもCa40mg/LでMg10mg/Lより多く含まれています。
代々、自社で管理する裏山は、大きな山ではありませんが、適度に保水することが出来る、倉本の酒造りには欠かせない大切な山です。
水
酒造りに使う水は、雨水がその山の地層をゆっくりと浸透することで濾過され、ミネラル分の溶出を受けながら清らかな水となります。日本は、山々に降った雨が地層の中に滞留する時間が短いため、軟水が多くなります。酒造りにおいて、ミネラル分は酵母の栄養源であり発酵に大きく関与します。しかし、Caは酵母の栄養必須成分ではなく増殖への寄与割合は少ないとされています。
私たちの水は、硬度の数字以上にゆっくりと菌を導く事になり、じっくりと酒が醸されます。
奈良
都祁(つげ)の地
奈良県北東部に大和高原に位置する奈良市都祁地域(旧都祁村)。標高500m前後で寒暖差が大きく、冬季は最低気温が氷点下になる日が続き、奈良県でも寒さの厳しい地域です。
都祁水分神社(つげみくまりじんじゃ)
大和国水分四社(都祁、宇太、吉野、葛城)の一つで、大和高原から流出する木津川上流の布目川や、大和川上流の初瀬川の水を司る神として崇敬されています。自然神で、農耕神としても地域で崇められてきました。
祭神は速秋津彦神、天水分神、国水分神の三柱の神で、古く本地垂跡説によると阿弥陀三尊と呼ばれています。延喜式神明帳をはじめ、文徳実録、三代実録などに記載されている由緒の古い神社で、飛鳥時代の創祀と伝えられており、創建当初は都祁山口神社(小山戸)の所にありましたが、天禄2年(971)、現在地に遷座されました。
水を司る神が祭られる地であり、清らかな水の源の地。奈良のこの地の恵みを受け、酒を醸しています。
日本清酒発祥の地 奈良
室町時代、奈良は【上槽】【火入れ】といった現代日本酒製法の基礎を形作り、【酒母】【段仕込み】という概念も生み出しました。それに大きく寄与したのが、甕から木桶への変化です。甕ではサイズが限られますが、木桶だとさらに大きく仕込めるようになったのです。また、【南都諸白(もろはく)】とよばれる、麹と掛米の両方に白米を使用する方法で、品質も向上しました。
これらの酒造技術は、室町時代を代表する革新的酒造法として、室町時代の古文書『御酒之日記』や江戸時代初期の『童蒙酒造記』にも記されています。時の天下人であった、織田信長や豊臣秀吉にも愛されたと言われています。
※上槽
濁ったお酒“どぶろく”を絞り“清酒(すみさけ)”にする技術のこと。絞ることで発酵が止まり、品質も安定する。酒粕が出来ることで、今の粕漬け(奈良漬け)も形作られました。
※火入れ
上槽で安定した品質をさらに安定させる技術。お酒の中で変化の起こりやすい酵素という成分の働きを、火入れ(熱を加える事)で止め、おいしさを持続させます。
※酒母
蒸した米・麹・水等を用いて、予め小さなタンクで優良な酵母を培養したもの。酒母でしっかりと酵母を育てた後、大きなタンクでのお酒造りとなります。
※段仕込み
酒母からさらに米・麹・水を加える事で多くの量を一度に仕込むこと。
都祁氷室(つげのひむろ)
この寒さを活かし奈良時代に造られていたのが氷室です。氷室とは、氷を保管する部屋(室・むろ)の事で、春~秋に製氷する技術が無かった時代、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管する必要がありました。正確な記録は残されていませんが、洞窟や地面に掘った穴に茅葺などの小屋を建てて覆い、保冷したとされるものです。氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができました。 氷室の歴史は古く、仁徳天皇六十二年紀の「日本書紀兼右本」にも記されています。
1986年には、平城京の長屋王邸宅の跡発掘調査において大量の木簡が出土し、その中に「都祁氷室(つげのひむろ)」と記載されたものが見つかっています。これらの事からも、この時代に氷室制度が確立し朝廷へ献上していた歴史が見て取れます。
当蔵のある都祁吐山においても、1991年にトノニシ遺跡で氷室跡が発掘されました。このように、氷室跡の歴史が語る厳冬の地で、その恵まれた地の利を生かし、酒造りを行っています。
菩提酛造り
菩提酛とは酒母の製法のことで、近代醸造法の基礎となる酒造技術の確立を担ったとされる、奈良の菩提山正暦寺を起源とします。室町時代に生まれたとされるこの製法は、江戸初期まで酒造りの中心となる製法でしたが、中期以降は、寺院の衰退や他の地域での寒い時期の酛づくりの登場により、衰退していきました。
菩提酛の特徴は、仕込水に生米を浸漬させて乳酸菌を発酵させた「そやし水」を使用することです。そやし水とは、30度程度の温度条件で乳酸菌の発酵を行い、2~3日でpHが3~4の酸性化した酸っぱい水で、これ用いてお酒を仕込むことで、清酒酵母が他の菌に負けること無く発酵してお酒になります。菩提酛のおかげで、暖かい時期も安定的にお酒を造ることができ、奈良は日本酒の一大生産地となりました。
1999年、奈良県で途絶えていた菩提酛造りの復活のために蔵元有志が集まり「奈良県菩提酛による清酒製造研究会」を発足させました。県内蔵元と奈良県の工業技術センター、及び正暦寺の協力の下、お酒造りで最も大事な清酒酵母や乳酸菌を正暦寺境内より分離に成功。正暦寺の寺領米と水を用いて、その分離した「正暦寺乳酸菌」と「正暦寺酵母」の働きにより酛を造り、近代醸造法を融合させて500年ぶりに菩提酛造りを復活させました。その製法で醸されるお酒は、奈良県独自の地域特性のある濃厚旨口の純米酒となっています。
また、この製造技術は正暦寺において後世に承継されるという文化的の側面も併せ持っています。
酒づくりに関わる人々
新洋技研工業株式会社
新潟県新潟市南区下塩俵1463番地1
TEL:025-362-1611
WEB:https://www.shinyo.co.jp
安藤次朗|LOVE AND PEACE